小説ってどんな風に書くのか
いつ頃からか、小説を書いてみたいと思っていた。何度か書いてみようと試みたことはある。たった一度だけ、その気持ちのままに小説を書き、完成させたことがある。あれは小学生の時で、同じく小説を書くのが好きだった友達にプレゼントした。今思えば、どうしてあんなストーリーにしたのか、物語のディテールはまるで覚えていないけれど、やけに暗いストーリーだったように記憶している。それでも私は張り切って、本屋の文房具コーナーで買ったとっておきのノートに、キャラクターのシャープペンシルで書き上げたのだ。なぜ小説を書こうと思うと縦書きになるのか、国語のノートと同じように、B5の横書きノートを回転させて縦書きにして書いた。
その後、何度か書きたい気持ちが何年かに1度という頻度で訪れた。その度に、自宅の机に改まって座り、ノートパソコンの前に構えてみるのだが、どうも筆が進まない。自分が何を書きたいのかわからないのだ。
最近、数年ぶりに小説が書きたい欲求を自己の中に感じている。書きたい、でも何を書いていいのかわからない。それでこうしてブログにとりとめもなく書いている。書いてさえいれば、書かないよりは前に進める気がしたからだ。言葉をつかいたい、言葉を紡ぎたい。私の小説を書きたいという欲求は言葉と文字に対する渇望からきている気がして、そういう意味では媒体は小説でなくてもいいような気がするけれど、まだ私の中の正解のピースを見つけていないから、やはり書くしかない。
片岡義男と江國香織の「小説ってこんな風に書くのか!」という対談を読んでいたら、いくつかヒントをもらった気がしたけれど、一番そうかなるほど、と思ったのは小説における時間の流れだった。二人は、小説の中で時間をいかにして流れさせるかが難しい、というような話をしていた。
「小説の中で1日なら1日分の、回想を含めて5年でもいいんだけど、ある一定の時間が現に流れている風に書くというのが、小説を書く全てのプロセスの中で一番難しい」という話を江國香織がしていて、そういう視点で読んだことはなかったな、と思ったのと同時に、そうか小説の中では時間軸が自由だな、と思った。
実は今日、「かもめ食堂」のDVDをみていたときに全く同じことを感じていたのだった。もし小説だったら、1つの場面のディテールや、場面から場面への移行をどうやって描くのだろうか、と。私は原作の方はまだ読んだことがなかったので、日本に帰ったら本屋で手に取り、映像の表現と文字の表現の違いを味わってみようと心密かに思っている。
自由な時間軸、書いて表現することと、書かないことで表現すること、色や匂い、そして人間の感情を書きたい、ような気がする。
いつか作品を完成させてみたい。まだはじめてもいないけど。
0コメント